倉持明日香/ノート

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スキャンダル

  • 2009年9月。写真週刊誌「FLASH」(光文社)9/22号に、倉持が中学生時代に撮影されたという、上半身裸で胸を手で覆っただけの衝撃的な‘手ブラ’写真が掲載された。:「この写真を撮影したのは、今から5年前の夏だったと思います。宣伝材料用の写真として撮影したんですが、水着は初めてだったんで、すっごく緊張しましたね。実は中学2年生の頃から芸能界にすっごく憧れていて、オーディションを受けていたんです。10回以上は受けましたね。最初は歌手になりたかったので、ボイストレーニングやダンスレッスンにも通っていました。最終審査まで残った事もあったんですけど、1回も合格しなかったんです。でも、改めてこの写真を見ると、別の意味でめちゃくちゃ恥ずかしい。だってすっごく太ってるから(笑)。今までの人生の中で一番恥ずかしい時代。ちょうど多摩川にアザラシの“たまちゃん”が登場した頃で、友達から「たまちゃん」とか「肉まん」って呼ばれてたぐらい(笑)。高校入学後は、一度もオーディションを受けずに、学業に専念していました。卒業したら歯科衛生士になろうと思い、専門学校も決めていたんです。でも高校3年生の夏に、周囲が進路で迷っているのを見ていたら不安になっちゃって。家族とも相談して、これで最後という事でAKBのオーディションを受けました。それまで落ちまくっていたんで、誰も受かるとは思っていなかったです」。
本来この様なスキャンダル記事に、スクープされたタレント本人が登場する事は少ないが、なぜか本人がインタビューに応じ、撮られた状況について解説するという不自然な体裁になっている。掲載した「FLASH」自身も悪質なことは書いておらず、スキャンダルをすっぱ抜いたという印象は全くない。倉持自身も笑いながらインタビューに答えている。しかし肝心の写真が撮られた状況の説明はなく、AKBに加入した時の話や、武道館公演をインフルエンザで休み、同期の卒業公演に出られなかったこと。そしてそれが原因でAKBを辞めようと思い、佐藤亜美菜に電話で「辞める」と話したが、泣きながら止められたエピソードなど、写真とはまったく関係の無いほっこりする話まで掲載されている。だがその不自然さ故、別のアイドルゴシップ誌やネット上で、撮影された写真の状況(後述)から「援助交際」や「ブルセラ」など、倉持がいかがわしいアルバイトに関わっていたのではないかとも囁かれた。[1]
実は「FLASH」という雑誌は、光文社という出版社が発行しているが、AKB関連では、メンバーの写真集、選抜総選挙じゃんけん選抜関連のムック本、月刊誌である『小説宝石』にメンバーが月替わりでレギュラー出演、さらには「FLASH」自身がAKBのみを特集した増刊号を何度も出版するなど、AKBとは非常に“友好的”な関係。当然「FLASH」側は載せないスタンスであったが、実はこの倉持の写真を持ち込んだ人物は何社か廻っていたため、「載せない」という選択肢は取れず(別の出版社がスキャンダルとして報じるだけなので)、AKBサイドと話し合い、あの様な形で掲載する事になったという。[1]
  • 9月12日、劇場で行われたK5th「逆上がり」公演では、冒頭にメンバーによる寸劇が行われていたが、この日は倉持の話題にあえて触れており、劇中で写真が撮られた状況などを語られた。それによると、中学生時代に街でスカウトマンに声をかけられ、その人物は当時倉持が憧れていたプロダクションの関連会社のマネージャーを名乗った。芸能界に憧れていた倉持はその話に乗り(倉持が中学生時代に芸能界入りを目指していたのは、このスキャンダルが出る前のインタビューでも答えており本当)、「プロモーション用の写真を撮りたい」と言われたので、言われるがままにグラビア用の写真撮影を行った。少し嫌だったし、撮影用の本格的なカメラではなく、いわゆるチェキ。さらに撮影場所にはベッドが写っており、スタジオなどではなくホテルのような場所だった。さすがにおかしいとは思ったが、当時は何も分からず、芸能界とはそういうものだと思い、相手のなすがままにしてしまった。しかしあくまで写真を撮られただけで、それ以上の特別な関係などは無かったとした。つまり、よくある“芸能界”を謳い文句に、少女たちにいかがわしい事をするという、ありがちな手に引っ掛かってしまった、というのが倉持の説明。
続くMCパートでは、写真週刊誌に掲載され、両親と話し合った時のことを説明した。「父に話した時に、怒られるんじゃないかとか、それ以上の事を覚悟していました。でも父は、最後まで私の話を黙って最後まで聞いてくれて、最後に一言『AKBのファンの皆さん、メンバ-、スタッフの皆さんに迷惑をかけてしまったなぁ…』と、父はすごく悲しい顔をしていました。私は大切な父を悲しませてしまった事が何よりも辛くて、不安で、悔しくて悔しくて、でも私の力じゃ謝る事しかできなくて…。夜、母と父は、寝る時間を割いて、私にとって何が一番良いかを考えてくれたり、スタッフの方に電話をして、私のために頭を下げている父の姿を見て、私は一人で泣いても泣いても、涙が尽きなくて、でも泣いてばかりじゃどうにもならない事も知っていて、正直、このまま続けるのはどうかとも悩んだんですが、ファンの皆さまからのお叱りや、温かい言葉を頂いて、メンバーからも電話やメールを毎日のように心配してくれて、スタッフの方々も私の事を気にかけて下さって、私はこのままじゃいけないんだと感じました。そして、こんなに多くの方に支えられている事をあらためて実感しました。あるスタッフさんから言われた言葉が、『風当たりは強いぞ。夢を諦められるなら、逃げ出せ』。私はこの言葉を聞いて決心しました。私は逃げません。私は真っ直ぐ前を向いて、これからもファンの皆さん、スタッフさん、家族、メンバーに支えられて、前へ前へと進んでいきたいと思います。皆さん、私をAKBに置いて下さい」。
客席のファンからは「明日香」コールが起こり、それに対し倉持は感謝の言葉を述べた。また、最初の寸劇は所々で笑いが起こるなど、多少茶番劇仕立てになっているが、それに対し秋元才加は「皆さんにとって茶番劇だと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、私たちにとっては、とっても辛い茶番劇です」と答えた。またこの日の前日は倉持の20歳の誕生日であり、続けて生誕祭が行われた。倉持は20歳の抱負を聞かれ「私はつい1週間前までは、もうこのステージに上がれないと思っていたんですが、今日この日を迎えられる事が、本当に嬉しくて、何よりファンの皆さまのおかげで、私は今ここに立てている事を心から感謝したいと思います。そして皆さまに少しずつでもお返しできるように、精一杯、全力でAKB48として頑張って行こうと思います。温かい声援、本当に嬉しいです。今日この日が、一生の宝物となりました。皆さま本当にありがとうございました。そしてこれからも、AKB48の倉持明日香をどうぞ応援よろしくお願いします」と挨拶をした。
  • 本来こようなタレントのスキャンダル記事に、本人が登場する事は少ないが、なぜか倉持本人が登場し、撮影された経緯について「事務所のプロモーション用の写真」と語り、過去の恥部であったと認めている。しかし、宣材写真で中学生のセミヌード写真をはたして撮るのか。また、背後に移っている場所は撮影所というより、ホテルの一室のようであり、説明にはやや不自然な点も残る。 だが雑誌サイドは、スキャンダルを素っ破抜いたというより、AKB(倉持)側に好意的なスタンスを取っている。この背景には「FLASH」を出版している光文社と秋元が懇意であり、話し合いで手打ちとなり、このような形での掲載になったとされている。その後、光文社はAKB48の海外公演に密着した『AKB48海外旅行日記 ニューヨークとカンヌって近いんですか?』を出版。AKB48と光文社の蜜月関係の信憑性は高い。一方、倉持は、劇場公演で、涙ながらに今回の騒動をファンの前で謝罪。一度はAKB48からの卒業も考えたことを明かし、スタッフからの「風当たりは強いぞ。夢を諦められるなら逃げ出せ」とも言われたが、その言葉で目が覚め、「私は逃げません!!」と力強く宣言したという。そしてファンに対して「私をAKBに置いてください」と去就を委ねると、劇場のファンからは倉持に温かい声援と拍手が送られた。 秋元康からも「残っても茨の道だぞ」と言われるが、泣きながらAKBを続ける旨を伝えたという。[2]

脚注・出典

  1. ^ a b 『BUBKA』 2009年11月号
  2. ^ http://news.livedoor.com/article/detail/4527026/