梅田彩佳

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NMB48 チームBII
AKB48 元メンバー
梅田 彩佳 うめだ あやか
2015年NMB48プロフィール 梅田彩佳.jpg
公式ニックネーム

うめちゃん

所属事務所

フレイヴ エンターテインメント

生年月日

1989年1月3日 (35歳)

出身地

福岡県

血液型

A型

身長

151.5cm

スリーサイズ

B78 W54 H82

合格期

AKB48 2期生

選抜回数

NMB48 3回
AKB48 5回

梅田 彩佳(うめだ あやか、1989年1月3日 - )は、NMB48チームBIIの副キャプテン。福岡県北九州市出身。フレイヴ エンターテインメント所属。

略歴

2006年
  • 2月、AKB48追加メンバーオーディション(2期生)に合格。
  • 4月1日、新たに創設されたチームKの一員として公演デビュー。
  • 10月25日、『会いたかった』でシングル選抜メンバーに初選出。
  • 12月、怪我の療養のため休業。
2008年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2015年

人物

キャラクター

  • キャッチフレーズは、「福岡県出身のうーっっめ!! うめちゃんこと梅田彩佳です!!」
デビュー当時は、「八重歯やけん。小悪魔やけん。ドラキュラこと梅田彩佳です」
  • ニックネームは現在は「うめちゃん」。デビュー当時は「キュラ」。
  • キャッチフレーズとニックネームがドラキュラに因んだものになっているのは、左右とも八重歯で、ドラキュラみたいな牙があったから。現在は矯正して八重歯ではなくなっている。
  • 48グループメンバーでは唯一の「昭和64年生まれ」。
  • 圧倒的ダンススキルでチームのパフォーマンス力を向上させてきた功労者。[1]身長が151.5cmと小柄なため、ちょっとでもダンスを大きく見せようと、手の柔軟をしている。[2]
  • 将来の夢は、マルチタレント[3]。「毎日忙しい人になりたいです。歌もしたいし、ダンスもしたいし、喋りたいです」[4]

幼少期

  • 1989年1月3日、福岡県北九州市に梅田家の長女として誕生。[5]お腹にいる時に、心臓が2度止まりかけた。[6]
  • 最初は「亜梨沙」という名前も考えられていたが、[6]父親がどうしても「彩」という字を使いたくて、[7]母親が、「彩りあるかわいい女の子に生まれて欲しい」ということで彩佳と名付けられた。[8]
  • 芸能界に憧れたキッカケは、MAXのNANAのライブを見て。[4]
  • 中学2年生の時に、学校で友人関係でギクシャクして居場所を失い、DA PUMPのダンスを見て格好いいと思い、西小倉にあるダンススタジオに通う。[6]2年ほどレッスンに通い、あとは独学でダンスを勉強。[9]
  • 市内の高校に進学。ダンス部に入り、コンテストにも出場。[6]
  • この頃から、この仕事しか自分にはないと思い、オーディションを受け始める。50社近くの会社に送り、良いところまで行った事もあったが、結局落選した。[10]
  • 2004年10月、モーニング娘。第7期オーディション2次審査に通過するも不合格。

AKB48として

2006年
  • 2月、高校2年生の時に、AKB48の第2期生オーディションに合格。先生や家族で話し合い、高校は退学するのではなく休学。[6]
  • 上京し、デビューに向けてレッスンを開始。「最初、AKB48は全員がライバルだから、仲良くなっちゃいけないって。友達が一人もいない東京で一人暮らし。私生活が見えない方がカッコいいって思ってました(苦笑)」[6]
  • 4月1日、チームK結成メンバーとして劇場公演でビュー。「ポジションは真ん中目が多かったです。優子はいつも隣で、その時一番話す子でしたけど、(心の中では)ライバルだと思ってました(笑)」[6]
  • 加入直前からデビューまでの話。「当時、私は地元のダンススクールでセンターを任されており、周りからもチヤホヤしてもらっていた。勝手に将来を約束された気になっていました。でも福岡から上京してきた私に待っていたのは、“上には上がいる”という当たり前の現実でした。私がどんなに一生懸命踊っても、追いつけない子がいました。メイクや髪型をどれほど研究しても、自分より可愛い子、綺麗な子が目の前にいました。だけど、認めたくなかった。誰かより“劣っている”自分を受け入れられなかったんです。なんで私が後列なわけ? どうして大人たちは私を認めてくれないの? 挫折した自分を直視できず、周りばかりを責めていました。そして、メンバーにも心を閉ざしました…。同じチームだからって、ライバルとなんか仲良くなれない! 元々アーティスト志向の強かった私は、そういう方々の持つミステリアスな面に憧れていました。だから、ファンになってくださった方々にも、『自分を応援してください』なんて言いたくなかった。格好悪いと思っていたんです。ただ毎日ひたすら、体力の続く限り踊っていました。身体が悲鳴を上げてもお構いなし。もっと踊れば、もっと上に行けるはず。認めて貰えるはず。1日でも休んだら、立ち位置が下がるかもしれない。足に痛みを感じた時も、誰にも言いませんでした。夢を追う女の子の意地ですね」[11]
  • 8月、体調不良という理由で公演を休むようになる。
  • 9月13日、公式ブログにて足を痛めていると公表(この時は症状までは発表してない。後に左足の臑(すね)を疲労骨折していたと判明)[12]。本人は出演したいと申し出るが、戸賀崎智信(当時の劇場支配人)は「無理をして公演を行い、本当に勝負をする時を逃して欲しくはないので、完治するまで休演するようにと説得をしました。おそらく、今月一杯は公演で踊ることは出来ないと思います」と報告した。[13]
  • 10月2日、足の怪我の具合は順調に快方に向かっているので、本日(10月2日)の公演から出演するとアナウンスされる。[14]しかし痛みが悪化し、再び休演や一部出演が多くなる。結果的にこの時の判断ミスにより、症状は悪化。
  • 10月25日にリリースされた『会いたかった』で初選抜。
  • 12月19日、17日からK3rd「脳内パラダイス」が始まっているが、運営側は「現在梅田は足の怪我が再発しており、公演すべての曲目の出演が難しくなっております。梅田の足の状況も考えしばらくは公演の曲目を一部お休みさせていただきます」と発表する。[15]ついにドクターストップがかかるが、梅田はステージ恐怖症に。「大好きなダンスのDVDとかを片付けて、ふさぎ込んでました」[12]
  • 12月20日、「梅田の足の状況ですがしばらくの間休養が必要となります。最終的には1曲残した楽曲もお休みさせていただき、チームK3rd公演をしばらくお休みとさせていただきます。チームkの公演には出演できませんが、AKB48の活動はもちろん続行いたします。テレビ・雑誌等のメディアへは今後も変わらず活動いたしますのでよろしくお願いいたします。ファンの皆様へはご心配をおかけしておりますが、今は怪我を確実に治しまた元気な姿で公演に復帰するまで暖かい目で見守って頂きますようよろしくお願いいたします」。[16]
  • 12月23日、劇場公演を休演する事が正式にアナウンス。「本日より、チームK梅田彩佳は足の怪我の為、劇場公演の出演をお休みさせて頂きます。足の怪我の状況や、今後の活動を検討した上での結果となりました。出演を楽しみにして頂いたファンの方々には御迷惑をお掛けしてしまい申し訳御座いません。又、急な御報告となりました事をお詫び申し上げます。次回、梅田彩佳が劇場公演に復帰する際は、元気な「ダンス姿」を皆様に見て頂けるよう、足の治療に専念させて頂きます」。[17]
  • その後は実家の福岡県に戻り、高校にも復学。[6]リハビリをしながら、地元テレビの番組リポーターなどを中心に活動していた。しかし「こうしている間にも、他のメンバーとの差が開いていく…。考えないようにしようとしても、その事が頭から離れません。こんな大事な時期に! なんで私なの!? AKBもじょじょにテレビに出させてもらい始めた頃です。実家の茶の間で左足をさすりながらテレビをつけると、みんなが私の知らない歌を歌っていた。あの時の絶望感は今でも忘れません…。上には上がいることを認められなかった自分。独りよがりして勝手に自滅してしまった、心も体も弱い自分。私なんて大嫌い。そんな失意のどん底から救ってくれたのは、福岡の家族でした。私の愚痴を毎日黙って聞いてくれたお母さん。『生きている限りなんとかなるんだよ』と励ましてくれたお父さん。そんな家族に支えられながら、私は自分の弱さを噛みしめました。それははじめ苦いものでしたが、時間をかけて噛みしめるうちに、優しい甘味を伴うようになりました。弱くてもいいのかもしれない…。そんな自分をもし好きになれたら、今度こそ変われるかもしれない。いつしか私は、足の怪我を治すことに加え、弱い自分を好きになるということをリハビリの目標にしていた気がします」[11]「どんどん有名になるAKB48をテレビで見ると、元気なら私も一緒のはずなのにって、消しちゃう日々でした」[12]
2007年
  • 3月30日、AKB48劇場で行われた「スペシャルイベントpart2」に出演。久しぶりに姿を見せる。
  • 6月22日、チームK3rd「脳内パラダイス」千秋楽に、一部であるが出演。
  • 10月19日、公式ブログにて、リハビリについてや、近況報告が行われる。「みなさん、こんにちは梅田彩佳です。『ファンの皆さんが梅田の近況を知りたがっているるよ』と、戸賀崎さんからお電話を頂き、近況をお伝えしていない自分が申し訳なく感じました。すいません。
怪我をしたのが去年の8月下旬、9月いっぱいお休みを頂き、10月から12月まで活動していましたが、怪我が再発してしまい…またしてもお休みすることになってしまいました。2回目の時どうしよう…ダンスできるかな…またステージたてるかな…と不安の固まりになっていましたが、秋元さんやスタッフさんが『待っているファンの方がいるんだから。がんばりなさい。一からのスタートと思って』と言われ、今まで自分がしてきたことは間違いじゃなかったんだ、これからまた頑張ろうと思いました。
休んだ最初の方は、安静がまず第一だったのでとにかく安静にし…怪我の炎症を抑える事に必死でした。それから、炎症がだいぶ収まってから怪我したところは治らないので、そこをまた再発させないために、筋肉で補うしかないのでリハビリ兼ジムに通いました。最初は体の中から筋肉をつけていくために、まだ負荷が少ないところから始め、だいぶ負荷が大きくなるように日々やっていきました。だいぶ筋肉がついたかなとトレーナーの方と話し、どれくらいついているかはかってみると、思った以上についてなく落ち込んだ時期がありました。それに中々筋肉がつかない体質らしく、それからタンパク質をよくとったり…どうしたらよくつくのか本を読んだりしました。今その段階で、普通の生活ならこの筋肉なら大丈夫だけれど、毎日ダンス…アスリートのところで考えるとまだちょっとなので頑張っています。固くなった筋肉などをほぐしてくれる理学療法師の方にも一週間に2回ほど通い、常に良い状態にしようと心がけています。ジムのトレーナーの方や理学療法師の方と相談し、“また再発しないように今から少しずつダンスなど、体を動かしていこう”という事になり、足に体重がかかるボクササイズをやったり、劇場のダンスと同じくらい激しいヒップホップダンスを、社長やスタッフに相談をして『ヒップホップダンスをしても大丈夫ですか?』と相談し、練習をしました。今まで軽く体を動かしたりはしていましたが、ダンスを本格的にするのは怪我したぶり、鏡の前にたつと足が震えました。もしまた足が痛くなったらどうしよう…どうしようどうしようどうしよう…脳内メーカーはきっと『どうしよう』だらけだったと思います。いざ始まって体を動かします。すぐに1時間は終わりました。
やはり足は痛いです。でもダンスができた。涙が出ました。大好きな大好きなダンスを鏡の前で踊れた事に感動しました。楽しかった。理学療法師の方に『足痛かったです』と相談すると、『当たり前』と頼もしい言葉をいただきました。『痛いのは当たり前。これからやっていって、きっとそれはなくなっていく。早く筋肉つけな! 脂肪が多いで!』。大阪の方なのか、何なのかはっきり包み隠さず言ってもらえるので、それをすぐ実行できます。今はそこです。そこの段階です。
その間、『アサデス。』の仕事もさせてもらい沢山の経験をしました。始めてするロケ、始めてすることだらけで不安もいっぱいでしたが、頑張ってます! 『アサデス。』の方にも『怪我が治ったら東京に行って寂しいけれど、早く怪我治す治す!』と温かい言葉も頂いて、人間ッて温かいな。みんな優しいんだなって改めて思いました。沢山気付く事がありました。ダンスがバカがつくほど好きなんだなあとか。スタッフさんのあったかさとか。人間のあったかさとか。ファンの方に会いたいなあとか。劇場行きたいなあとか。 家族の大切さとか。なにしろ、ライブがこんなにも好きだったんだなあとか。ステージで踊れるってこんなにも嬉しいことなんだなあとか。気付く事が多くて自分を見つめ直すことができました。まだもうちょっと時間がかかりますが、頑張ります。近況報告しなくてごめんなさい。沢山心配かけてごめんなさい。沢山待ってもらってごめんなさい。頑張るから、待っていて下さい」。[18]
2008年
  • 5月31日、チームK4th「最終ベルが鳴る」公演初日からAKB48に復帰。メンバーの中には、怪我が原因で引退を余儀なくされたメンバーの多いが、梅田は1年半という長いリハビリを経て再び復帰したという数少ない例。ただし、今でも痛み止めを常備し、テーピングやアイシングは欠かさないという。
  • 6月13日、『Baby! Baby! Baby!』で1年8ヶ月ぶりの選抜復帰。
2009年
  • 2009年、そして2010年の東京タワーイメージガールを務めた。
  • 4月11日、K2nd「青春ガールズ」の頃に、Kの中でも特にダンスが好きだった4人(大島優子松原夏海野呂佳代)で、自主的にダンスユニット「梅島夏代」を結成していたが、この日初日を迎えたK5th「逆上がり」にある『エンドロール』という曲は、秋元康が梅島夏代をユニットとして認め、4人の為に書き下ろした曲。「また休むんじゃないのっていう周りの視線も、いつしか変えられました」[12]
  • 7月8日、第1回総選挙では圏外に終わる。
  • 8月23日、コンサート「組閣祭り」でチームのシャッフルが発表。梅田と大島はチームKに残留となったが、松原はチームAに異動。野呂がAKB48から卒業しSDN48への移籍が発表された。
2010年
  • 2月21日、「逆上がり」公演千秋楽をもって(旧)チームKが解散。
  • 3月25日、横浜アリーナコンサートで梅島夏代の『エンドロール』を披露。梅田は「私、ここでこのまま死んでもいい…」そう思ったとか。「横アリは3人と積み重ねてきた集大成だったんです」。歌って踊れる事が、如何に幸せな事であるか。“今”を幸せに感じ大切にする姿勢は、AKB48全体にとっても貴重なお手本だ。[12]
  • 6月9日、第2回総選挙では、32位にランクインしアンダーガールズに選ばれた。スピーチでは「去年はここに立てなくて、立ってるメンバーがどんな感じにステージが見えるんだろうとか、スピーチしてるのがすごく羨ましかったです」と挨拶した。
  • 戸賀崎「一度足の怪我で戦線を離脱して、復活を遂げた強靱な精神力の持ち主。メンバーやファンとの絆の大事さ、何よりステージに立てるありがたさを誰よりも分かっている子」。[1]
  • 「足の故障の為、得意のダンスが封印された時期がありました。それどころか公演にすら出られず、地元に帰って静養していました。辛かったでしょうが、そんな事はおくびにも出さず、本誌の撮影には福岡から通ってくれました。本当にダンスが好きで、中高生の頃はビルのガラスを鏡代わりにしてダンス仲間と踊っていたそうです。そんな子がダンサブルなチームに入って、ダンスで認められるというのは、実に美しい話です」[4]
  • 9月、じゃんけん大会への事前インタビューでは、「私もセンターを狙いますよ。実際になったら色々言われるする事もあると思うけど、じゃんけんで勝ち抜いた誇りを持って頑張りたいと思います。それにインターネットの検索ランキングで1位になるのも夢なので! きっとみんな『誰この子?』って調べますもんね」。[19]
梅田はシードだった為、1回でも勝てば選抜入りだったが、結果は田名部生来に負けてしまい、久しぶりの選抜復帰とはならなかった。
  • 10月15日、『AKB48のオールナイトニッポン』に緊急ゲスト出演した。これは先日、チームKキャプテン秋元才加と広井王子のお泊まり報道がなされ、秋元が騒動の責任を取る形でチームKキャプテンからの辞任を発表したため。報道では秋元の住むマンション(所属事務所の寮)には同居人も居たとされており、そのメンバーが梅田だったと、秋元の口から公表された。
梅田は「才加がこんな事になって…同居人として、驚きと共に、とても後悔しています。あの時止めていれば、今こうなっていなかったのかもしれないと、ものすごく後悔しています」と、後悔を滲ませた。また秋元に対して「さやか以外、(チームKの)キャプテンは考えられません。絶対さやかならまたキャプテンに戻ってくると思います」とエールを送った。[20]